2008年3月7日の朝刊に
1862年4月16日(晋作22才)のとき上海派遣団に参加する際、
叔父宛の書簡が見つかったと報じられた。
吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作のファンとして嬉しくなった。
幕末を動かした長州藩で倒幕論に統一した風雲児!
「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」と伊藤博文が評したように決断の速さと、直感、
行動力は大天才だと思う。
直感と言っても緻密な計算に基づいており、世界がよく見えていたのでは。
1857年(17才): 吉田松陰の松下村塾に入る
1860年(20才) :1月23日、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、
井上マサ(雅子)と結婚
1863年(23才): 6月4日、藩主から下関の防衛を命じられ白石正一郎宅(海運業を営み
騎兵隊を支援)へ行く
6月8日奇兵隊結成。
1864年12月15日(24才):伊藤俊輔(のちの伊藤博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊らわずか80人程度で兵を挙げ、長府功山寺に潜居していた三条実美(さんじょうさねとみ)ら五卿に向かい
「ただいまより長州男児の肝っ玉お見せし申す」と決意を表明し挙兵する。
この決起がやがて明治維新を引き起こし、武士の時代を終わらせるのです。
1867年4月14日(27才8ヶ月):下関市新地町で結核で病死した。惜しくも明治維新の成功を見ずに・・・。あまりにも短い生涯でした。
明治維新の
大政奉還が1867年10月14日ですから、あと半年長生きしてほしかった。高杉晋作の墓は下関市吉田の東行庵(とうぎょうあん)にあります。
高杉晋作は
西行法師を尊敬していたようです。名前も真似て
「高杉東行」と名乗ったようです。東行庵にある晋作の墓にも「東行墓」と刻んであります。
辞世の句として
「おもしろきこともなき世をおもしろく…」とよんだといわれています。晋作を看病した野村望東尼(のむらぼうとうに)が
「すみなすものは心なりけり」と続けたともいわれています。
「おもしろくない世をおもしろくするのは、心の持ち方次第」という意味らしい。
*野村望東尼:女流歌人で尊王攘夷派。晋作、西郷隆盛など交流があった。
坂本龍馬もこの年11月15日(33才)大政奉還から1ヵ月後、暗殺された。
「世の人は我をなんともいわばいえ 我がすることは我のみぞ知る」龍馬が若いころつくった歌